見たいときに見ることができ、何度見ても幸福を味わえる。
そんな映画を「楽園の映画」と名づけました。
数ある楽園の映画群に、またひとつ傑作が加わりました。
「ルパン三世 カリオストロの城」です。
え?今さら?と思われる方は多いでしょう。
この映画を初公開時に映画館で見たとき、「ルパン三世」の第2シリーズに見切りをつけていた私は、やっと第1シリーズの世界が帰ってきた!と快哉を叫んだものです。
しかし、その後、映画館やテレビなどで何度か繰り返し見て、映画史上の最高傑作(私の中では、200作以上あります)に入るほどではない、というくらいの想いしか抱いていませんでした。
前回に見てから何年になるのか、もはや思い出せないくらい長い年月を経て、このたびブルーレイで見直しました。
目的は、ブルーレイ版の画質検証くらいだったのですが、逆転!
これまでに見た、どのときよりも深い感銘を受け、これこそ楽園の映画として座右に置かねばならない!と即座にDVDの購入を決意しました。
これほどの傑作を、実に40年の間、理解できていなかった私は、映画の理解力がまだまだなのだ、と強く思い知らされました。
それゆえに、まだ見ぬ傑作たちとの出合い、理解できずにいる傑作たちとの再会に、限りない期待が湧き上がっています。
以下、「ルパン三世 カリオストロの城」について、批評ではなく、感想の形で、まとめてみました(長文です)。
ブルーレイでも、多少の傷や汚れは消し切れていない。ブルーレイ特有のベタッとした色あいは、良い意味で言えばテクニカラーを思わせる。しかし、もう何年、いや何十年もフィルムで見ていないのだから、改めてフィルムを見て対比しなければ意味がない。
説明的なせりふが多い。子ども向けを意識したためだろうか。もっと工夫やひねりや毒気があってこそ「ルパン三世」だ。
初めて見たときから、ずっと言い続けていることだが、音楽への違和感が、どうしてもまとわり続けている。山下毅雄の音楽に入れ替えた特別版が作られることは永遠にないのか?
……そんなことを思いながら見ていた。ルパンと次元が、大公家の古屋敷を訪ねるまでは。
火事で荒れた屋敷を見ながら敷地を歩き、ルパンの過去が少しずつ明らかになってくると、もはや涙が止まらない。
過去と現在という2つの事象が明確にされることによって、この映画の本質もまた明らかになり、確たる主題の貫徹へと加速されるからだ。
対比や対照は、豊かに様相を変えながら、この映画を支える根源として輝きを放ち続ける。
核となる対比は、上と下だ。言い換えれば、高さと低さ。
高所の最たるものが時計搭であり、低所は地下の墓地や偽札工場だ。
これらは、人間の能力を超えた高さや低さにはなっていない。
登ろうと思えば登れる高さであり、下りようと思えば下りることのできる低さである。
誰が見ても明確な距離感ゆえ、かえって高さや低さによって生じる難しさや怖さが強く伝わってくる。
最近の映画では、「スカイスクレイパー」が、世界最高層のビルを舞台にしている。
しかし、高さを比較できる対象となる場所や運動の場面が少ないために、高さの把握や恐怖が希薄になり、限定された空間の中で敵や炎と戦っているという印象にとどまってしまう。
逆に深海を舞台とした「MEG ザ・モンスター」では、人類未踏の深さに潜行していっても、それは一般人に実感できない「低さ」ゆえに、やはり限定された空間における巨大サメとの戦いに終始するところから脱し得ない。
見る者が、高さや低さを現実的な恐怖の対象として実感できるには、適度な比較の対象を常に設定しておくことが必要となる。
過去と現在。上と下、すなわち高さと低さ。
それらに加えて、光と影、金と銀、衛士と埼玉県警など多様な対照が変奏されていく。
2つの対照をつなぐ中間の存在が、主人公のルパン三世である。
クラリスと伯爵の間を往来して活躍するという説話上の設定を大きく超越し、その「中間性」は、私たちの視覚を直撃する。
自動車で崖の壁面を登って下りる、城の壁面を駆け下りる、などの描写が、「荒唐無稽」「そんなことできるはずがない」といった意識を見る者に抱かせる隙もなく、爽快感のある速さや迫力をもって圧倒するのは、高所と低所を結ぶ斜めの線を高速で移動する運動として、この映画の本質を画面上に構築ているため、と見なしても良いのではないだろうか。
2つの対照と中間の存在。まるで「七人の侍」や「用心棒」や「荒野の用心棒」のような設定が、さらに純粋に厳格に、そして豊穣に視覚化され続ける表現力に、限りない幸福と深い畏怖をおぼえずにいられない。
この偉大なる傑作が40年前に誕生していた歴史的事実に、ちょうど40年の歳月を経て気づいたことは、決して遅すぎたものではない、と解釈していいだろう。
そして、これからの年月を、楽園の映画である「ルパン三世 カリオストロの城」と共にできる幸福を無上の喜びとして受け入れたい。